しんしんしん 寄稿

雪か泥か

河岸で火を燃す石田法嗣に近づくように、水色のドレスに橙色の上着を羽織った我妻三輪子が画面奥から現れる。冒頭から、風格さえ感じさせる長回しだが、当のショットに突如として切り返しショットが挿入されるや、この映画は奇妙な不安定さを生き始める。このショットは持続を進んで断ち切る決然さというよりも、「長回し」か「切り返し」か、はたまたそんなことは問題にしないのか、そのどの態度も取りかねている作家・眞田康平の姿を透かせて見せる。映画の真実の所在を測りかねるように、この映画の言葉で言えば一体どこに「ほんとう」があるのか、探しあぐねるように、映画はフィックス、手持ち、ジャンプカット、台詞、即興…を往還しながら進んで行く。そして、この場所を選んでしまったこと、このような言葉を選んでしまったこと、このように振る舞ってしまったことの「取り返しのつかなさ」だけを、雪のように降り積もらせて行く。それは自ら進む先に「ほんとう」を探して、ここではないどこかへと渡り歩く映画内の擬似家族がたどる道程とはっきり重なり合う。とりわけ、本名とは別の名「ユキ」を与えられた我妻三輪子は、「自分ではない自分」への希求を痛々しいほどに体現して見せる。何よりもこうした希求こそが「取り返しのつかない」事態を作り出しているにも関わらず。

しかし、誰も賢しらに彼らを笑うことなど許されてはいない。映画とは本来、希求に導かれた「取り返しのつかなさ」に他ならず、そのことにこんなに誠実に苦しんでみせる映画もない。『しんしんしん』の公開に当たって、幾人もの観客が綺麗に降り積もった「取り返しのつかなさ」を踏みにじって行くだろう。ただ、できることならば観客たちの一歩一歩が、我妻や眞田と同様の、誠実な希求に導かれたものであることを願う。そうであれば、それが雪か泥かはいずれ問題でなくなる。それは映画と観客の確かな出会いの足跡として固まるのだから。

濱口竜介(映画監督)

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